城跡・砦跡一覧

マップで探そう!

明知城

 

 

市街地の東側、山の頂きに位置する明知城址(別名、白鷹城址)は、明知遠山氏代々の居城の城址です。
明知城は、標高530mの山に築かれた地形を巧みに利用した山城で、今もなお大小23箇所の土盛砦が原型のまま残っており、県の指定文化財となっています。
宝治元年(1247年・鎌倉時代)、遠山景重により築城されました(遠山景重は、源頼朝の重臣加藤景廉の孫にあたる)。交通の要所であった為、戦国時代には何度か攻め入られ落城しましたが、関ヶ原の合戦(1600年)の際に遠山家が奪還しました。
その後、元和元年(1615年)一国一城令により廃城となり、行政は城下大手門近くの明知陣屋にて明治の大政奉還まで代官が行いました。
現在は、市民ボランティアが中心となり、草刈り作業など散策道の整備を行っています。市街地から徒歩でも行けますが、オススメは県道33号線脇の明知城址駐車場(明智学校給食センター向かい)からの散策です。ここからですと山道を100mほど登ると本丸跡に着きます。

 

 

 

明知城は、恵那市南部では岩村城に次ぐ規模の城郭です。城跡は現在公園となり、散策道も設けられています。
石垣は見られませんが、多くの曲輪、堀切等が良好に残されています。特徴的なのは、主要な曲輪の周囲に設けられた「畝状空堀群」と呼ばれる遺構です。これは斜面に平行するように設けられた堀(横堀)と、斜面に直行するように設けられた複数の堀(竪堀)を組み合わせたもので、斜面を伝って侵入しようとする敵兵の動きを封じる目的で築かれました。畝状空堀群を持つ城郭は、恵那市域でもごく限られており、その築かれた時期も今のところ定かではありません。

仲深山砦

 

 

「明知年譜」には「明知城南二字万ケ洞ト云ハ、信州ヨリノ往還街道明知へノ処タリ、
依テ要害ノ為ニ遠山与惣左衛門屋敷溝アリ」と記されている。万ケ洞にある当砦が、これに相当するのであろうか。地元では、仲深山砦という名称で城館の存在が伝承されている。
本砦は、明知城から谷を一つ隔てた山上に選地しており、明知城とは直線距離で約200m離れる程度である。
城域堀切を挟んだ東西二つの曲輪群から構成されている。このうち、東方の曲輪は背後を深さ約2mの二重堀切で画し、その内側に高さ1mの土塁を設けている。土塁の内側の曲輪面は内部に起伏を残している。

多羅砦(土岐明智城)

 

 

明智の市街地の南の丘陵上にある。明智川を挟んで対岸には至近に明知城、仲深山砦があり、山の上に立てば、明智の盆地を一望できる。
明智遠山氏の一族、遠山串原五郎景経が居城したと言われている。また、「明智年譜」には「天正元年(1573)以来遠山串原五郎景経此取手山ヲ守り・・・此山下屋敷ヲ溝へ子孫友ニ住ス」とあり串原遠山氏が居城したとある。このことからすると串原遠山氏はその本拠地串原には串原城や大平城があるが、戦国末期の武田氏の勢力が強く及んで来た天正期の初め頃は、明智遠山氏の本拠地へ移って、その防衛に当たっていたことが伺える。
現在一帯は千畳敷公園として整備され、地表の暖変が著しく細部は不明である。

まだまだある!明智の城・砦・陣屋跡

諏訪ケ峯砦(鶴岡山陣城)

明知城の北西、約3kmの大泉の山がこれで、山頂に諏訪大明神をまつることから「スワケ根」と呼ばれる。山嶺の南端部にあるため南の視界は広く、明知城を望視できる。
明智年譜の遠山一行条に天正2年(1574)、武田勝頼が東濃へ侵攻し、明知城を攻めた時、織田信長は「忽チ後語三万騎引率シ鶴岡マデ自身出陣ノ処、甲将山県三郎兵衛六千騎以テ騎向フ。織田勢一支モナク先陣崩レケレハ、信長止ム事ヲ得ス数里引退」とあるが「信長公記」には、信長の鶴岡山在陣はふれていない。「恵那郡史」(大正15年)には、「・・・織田方の拠ったところと伝へられる。改正後風土記云、信長先手の兵は明智の向ひ鶴が岡へ取棄云々と。山背鶴岡村原の地を隔てて、同村田代に通ずる山道に旗立松の名を存している。・・・この山道田代部落を経て土岐郡に至るべく岩村、明知等を指呼し得る展望の地点である。蓋し織田軍の重要な軍用路であり、織田軍がここへ陣城を構えたことは十分に理解できるが、明知城の落城により為す所なく撤退している。

明知陣屋

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、旧城であった明知城を奪還した遠山利景は、同8年恵那・土岐郡内しい6531石を領することになった。その支配拠点となったのが明知陣屋である。遠山氏は元和元年(1615)から旗本でありながら領内と江戸の間を参勤交代する交代寄合格となったが、延宝6年(1678)以降は江戸定府となった。以後、陣屋には明治初年まで代官村上氏によって管理されることになった。
陣屋は明知城北西麓にあり、おおむね二段からなる平坦地によって形成されている。東および北側背後の尾根道は高さ1.5m、幅3mの土塁、幅約2m、深さ約1mの堀で画くしており、西側虎口前の土橋南北には幅約15m前後の水堀を部分的に巡らしている。その内部には土蔵、長屋、代官村上氏屋敷、稲荷神社等の建物が現存する他、「お池」と呼ばれる池遺溝、馬場跡もほぼ形態をを止めている。陣屋内部の様子は「元治元甲子年江戸御屋鋪江相廻ル写」によって知ることができ、これによれば西側虎口の東奥に陣屋政庁となる殿舎群がり、それを囲うように家臣長屋が点在していたようである。背後の明知城との間には柵列によって画されていた。もっとも、絵図に描かれた幕末寺の状況は遠山氏が参勤交代を行っていた近世初頭の様子をそのままに伝えているとは考え難い。殿舎群等を中心に返遷があったことは十分考えられる。また、陣屋が中世城郭に接して構えられる点は小里(瑞浪市)・妻木城(土岐市)とも共通しており、近世における古城と陣屋の関係を考える上で注意される。
明知城が機能した段階においても、陣屋の場所に居館的な施設が先行して存在した可能性も考えておくべきであろう。

一夜城

「明智町誌」によると、天正2年(1574)に武田氏の将秋山信友が明知城を攻めた時に戸障子を立てて、城壁のように見せかけた城を築いたことから「一夜城」の名がついたという伝承により、この名がある。「明智年譜」では、武田勝頼が明知城攻略にあたって、明知城の北庁に陣城を構えたとするのが、この一夜城に当たるものと考えられている。武田勝頼が大軍をもって東濃地区へ侵攻したのは、天正2年でこの時に東濃の諾砦のほとんどが武田方の手に落ちている。明知遠山氏の領国は武田氏の支配下に組み込まれるが、その時の陣城がこの一夜城と伝承される。

門野氏の砦

明知遠山氏の郎党、門野氏の砦跡の伝承がある。角野氏については文化元年(1804)の御知行所由緒有百姓御改」の写しによると、明知村丈右衛門は「先祖は門野角八、同磯之助・・・元亀三年(1572同国上村合戦ノ砌(みぎり)景行公(明知城主)御生害ノ節、右両人討死仕夫ヨリ八代ノ子孫丈右エ門・・・」とある。元亀3年に武田氏の将、秋山信友が来攻した時に東濃三河の諸将がこれを迎撃したのが、上村合戦で、遠山方の総大将は明知城主、遠山景行は大敗し、高井戸の山中で自刃したと伝える。この時に地士角野氏は景行に従って出陣し、討死したというのである。そうした地士の多くは、明知遠山氏が徳川氏を頼って出国した際に地元に残って帰農し長百姓などになって残ったというのである。

陣屋敷砦

明智市街地の北方の野志の丘陵地の小さな山尾根上に立地する。ここは明智と岩村とを結ぶ幹線路に沿ったところで、山岡町から峠を越えた位置にあり、ここから西に向かうと大舟を経て原へ通じ、古くから土岐へ連絡する。また、北の峠を越えると羽佐間へ通じ釜谷城へ連絡できる位置で、明智防衛の北の要衛である。
陣屋敷の地名を残すが、史料・伝承等全く不明。地元での聞き取りでも砦の存在を言う人がいなかった。近くには天正2年(1574)、武田勝頼が東濃地方へ侵攻し、明知城を攻めた時の武田軍の陣城とされる一夜城が東方2kmにあり、その時の織田軍の拠ったと伝える鶴岡山は西北西1.7kmにあることから、この砦もその時の一連のものと思われるがはっきりとした資料は今のところ見当たらない。

中切のお城(白山)

明智町の東部、高波川の右岸、中切集落の西側の山塊の中にある。特に目立った山ではないので、探し当てるのが難しいが登るには北側の小杉側の三軒屋のあるところから登ると比高も少なく楽である。
地元で「お城」あるいは「白山」と呼ばれているが、史料、伝承等城歴に関するものはない。唯考えられるのは明知遠山氏の東方の物見であろう。東方上矢作下村下流域の漆原地区から大馬渡、中切、落倉のルートは明知への最短距離で、国境地帯の防衛のためには重要な連絡路があった事が考えられる。また峰山から木の実への山道を考え合わせると、このあたりがにわかに重要な中継点となりうる。以上のような観点で見るとこの山に物見が置かれても不思議ではなくなる。
もう一つ考えられるのは、地域の人々が有事に逃げこむ避難所として逃げこみ城であるが、そのためにこれだけの土木工事をしたとも考えられない。やはり連絡用の物見の砦であろうか。

大久手砦

明智町市街地の東南2kmの丘陵地上の小山が大久手砦の比定地としてあげられている。大久手集落の南西になり、最近一帯には大型の工場が建てられ開発が進んでいる事からわかるように、丘陵地は平坦地が広がっていて、その中に小山がある。
なた西には明智川、南には高波川が流れて深い谷を造っているために、特に串原方面の見通しはよく、大平城も視野に入るし、明智の仲深山砦や落合山取手との連絡がつく位置である。
この砦についての伝承・史料等は不明「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集」には「明智町大久手砦跡」が載っているが、その詳細については分からない。瑞浪市釜戸町大湫稲荷山に「大久手城」があり、遠山十八家の城で西尾道永の名があるが明智町の大久手砦については資料はなく何とも言い難い。地元に砦の伝承があったのであろうか。

 

▲